わたしにとってのスポーツ

2019 年2 月21 日6期 西村二郎

 音痴という言葉がある。この表現方法に従えば、私は運痴に近い。忘れもしない昭和62年、私は昭和電工セラミックス事業部の研究所長として長野県塩尻市にいた。研究所内のゴルフ大会があり、所長杯を争う関係上、私にも出て欲しいと要請された。
 なにしろ止まっている球を打つのだからと、コースに出たこともないのに、二つ返事で引き受けた。結果は245という空前絶後のスコアだった。もちろん空振りもきちんとカウントしてある。以来、避けて通れないコンペには参加しているが、ハーフのエージシューターに止まっている。とは言え、ゴルフが嫌いな訳ではない。下手は下手なりの目標を達成したときは気分が良い。第一、身体を動かすことには爽快感がある。
 私は物心付いた頃からずっとチビだ。それでも小学校では野球(三角ベースとかゴロ野球とかやった)が大好き。中学校ではバスケットが好きだった。しかしチビで下手クソな私はクラス対抗戦さえ出して貰えなかった。
 小学生の頃、夏になれば毎日のように宍道湖で泳いだ(シジミも獲った)。ある日、突然、泳げるようになったときの感激は忘れられない。
 松高では断郊競争というのがあった。後に宍道湖一周となったが、我々のときは武内神社往復だった。全員参加なので私にも出番があった。球技ではないので私向きだった。一年生のとき108位/300人、二年生のとき56位になり、三年生のときは10番以内を狙い楽しみにしていたが3月中旬から3ヶ月半、原因不明の病気に罹り長期欠席を余儀なくされ出場が叶わなかった。悔しかった。因みに、同期では小林茂光さんが常勝だった。
 会社に入ったとき、配属先の中央研究所の運動会において、グランドを2周する約400米競争において、何と1位になった。会社の運動会レベルとは言えスポーツで活躍したのは生まれて初めてのことなので嬉しかった。以来、中研の運動会では活躍した。
 もう一つ、良い思い出がある。全社のソフトボール大会というのがあった。会津若松市近くの小工場に勤務をしていた私は40才以上枠として選手に選ばれた。8番ライトである。それまで、出ると負けの工場だったので1勝することが目標となった。一回戦の対戦相手は京浜地区の大工場だった。奇跡が起きた。1点リードのまま最終回を迎え、ウイニングボールが私の方へ飛んできた。打ったのは野球部のユニフォームを着た選手。「伸びるゾ、左に切れるゾ・・・」監督の大声に、私は思い切ってバックし回りこんだ。無我夢中で差し出したグローブに球が収まっていた。
 この工場で、私が万年課長として燻っていたとき、研究所発の新事業立上げプロジェクト(超砥粒)がスタートした。ここで超砥粒とは、研削・研磨用に使われるダイヤモンドと立方晶窒化ホウ素(CBN)のことである。ダイヤは石材を含むセラミックスおよび非鉄金属、CBNは鉄鋼用の研削・研磨に用いられる。両方とも約5万気圧・1500℃で合成される。取引の単位はカラットである。
 このとき、研究所の落第生だった私がプロマネとして起用された。当時の新事業開発担当常務は中研出身で、運動会で活躍していた私のファイトを見込んでくれたお陰だった。これが私の会社人生の転機となったので、もう少し後日談にお付合い頂きたい。
 製造工程が完成しても製品は売れなかった。研究の完成度が低いためと市場調査の甘さが原因だった。当然ながら赤字が積み上がる。1年も経たないうちに、プロジェクトを解散させよ、という声が本社を中心に上がり始めた。窮地に追い詰められたプロジェクトのメンバーは、オペレーターに至るまで踏ん張った(産業界では一度、ボツになったプロジェクトが復活することがときどきある。火事場の馬鹿力だ。私は「赤穂義士効果」と呼んでいる)。何しろ、開店休業状態の製造プラントをフルに使って研究をやるのだから捗った。神様も助けて下さった。合成研究のリーダーが素晴らしい触媒(新規物質)を発明してくれた。それまで、10年近く研究をしていても徒労に終わっていた研究を実らせたのである。特許も文句なしに取れた。プロジェクトはCBNに注力すること、3年以内に黒字化することを条件に解散を免れた。
 品質が良くなった我々のCBNは、先発の米国のGE品に互して売れ始めた。急なオーダーに対する運び役はプロマネの私だった。製販一体運営で、営業も研究も製造も、塩尻工場に常駐していた。私は当時流行りのボンドカバンの中に数百万円分のCBNを詰め、夜行列車に飛び乗って、大口ユーザーのいる福岡まで駆け付けたたものである。
 好事魔多し。昭和60年9月、プラザ合意が成立し急激な円高に襲われた。輸入品の価格はたちまち半額になった。しかし、自社開発の触媒の威力は素晴らしかった。我々は量産効果を先取りし果敢に値下げをした。すると市場が急拡大した。米英独仏墺にも売りに行った。工業用ダイヤの買付に冷戦下のソ連にも出掛けた。業績は薄紙を剥ぐように好転していった。3年目には、目出度く半年の期間損益を黒字化することができた。これを契機に、私は窓際の席から少し内側の席に移動することになったのである。
 私は単に懸命に走る姿を認められてチャンスが与えられた。スポーツ界で活躍した人はもっと本質的な意味で評価され、実業界で活躍している人が多い。
 2011年末、男子バレーボールの名監督・松平康隆氏が亡くなった。享年81才である。氏は監督としてオリンピックではメキシコで銀、ミュンヘンで金メダルを取った方である。  1972年のミュンヘンオリンピックにおける男子バレーの金メダル獲得は、感銘的な出来事としてわたしの脳裏に深く刻まれていた。
 そこで、松平監督のマネージメントについて知りたくなり、その年、氏の著書「負けてたまるか!」(1972年 柴田書店)を読んでみた。因みに、この本はとっくに絶版になっていたので、古本を買うべくネットで調べたら、何と、450円の本が5,000円(Amazon.com)になっていた。
 読後感を一口で言えば、氏は素晴らしいセンスとマネージメント能力、実行力の持ち主だということである。

(「負けてたまるか!」の概要)

 バレーボールで勝つために松平監督はここまでやったのか、私は感動した。
 スポーツ選手一般も実業界で活躍している。一流のスポーツ選手はズバ抜けた身体能力を持っている。そうした選手達が、新しい攻め手を考案し、ハードトレーニングで身に付け実戦で試してみる。結果はすぐに出る。かくて、創意工夫の威力を実感し、更に追い求める・・・
 スポーツ選手は早い時期から成功体験を積んでいるのである。
 なお、松平さんは一時期、日本鋼管の選手・監督をしていた。同時期、松高2期の石原道央大先輩も日本鋼管、全日本のバレーボール選手として活躍されていた(ミュンヘンオリンピック当時、残念ながら石原先輩は40才なので現役ではなかった)。
 「負けてたまるか!」を読んで感動した私は、早速、松江会でお眼に掛かったことがある石原先輩に電話して確かめた。私がだんだん会に入ったのは、そのとき勧められたからである。

(付図)

 三森選手のフライイングレシーブは想像を絶するプレーである。このようなプレーをものにするには、これまた想像を絶する努力が必要である。
 このようなプレーに初めて出くわした対戦相手は驚いたに違いない。そして効果的だったろう。
 最初に不可能を可能にすることが大切なのは、どの分野でも同じである。

 次回は石原大先輩にバトンタッチさせて頂きます。以上

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