4期 尾野 幹也
私の母校、雑賀小学校の南西方向に小高い丘があり、大橋川を挟んで白潟、末次地区や、宍道湖、松江城を見渡せる眺望の良い場所である。この丘に、掘尾吉晴と息子の忠氏が床几を据えて、新しい築城の地勢を検分したとの伝承があり、現在も床几山と呼ばれている。
慶長5年(1600年)、掘尾忠氏が、出雲・隠岐二国の太守に任じられ、父親の掘尾吉晴とともに富田城に入った。吉晴は信長、秀吉に仕え、天正18年(1587年)の小田原征伐に従軍、嫡男を戦死
月山富田城 山中御殿跡
で失ったが、戦功を称され、浜松城主12万石に封じられた。豊臣政権の重鎮であったが、秀吉の死後は徳川家康の傘下に入り、慶長4年に老齢を理由に家督を次男忠氏に譲って隠居した。翌慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与したが、本戦には参加せず、代わって出陣した忠氏が戦功を称されて、出雲国富田24万石に加増移封された。富田の町は浜松に比べて極端に狭い谷合にあり、高い山の上にある城と山麓の町が離れ過ぎており、交通の便も悪かったことなどから、すぐにも新城地の物色に着手した。
富田城の前城主吉川広家は、出雲、伯耆、安芸の三国にわたって支配地を持っており、天正16年(1558年)に米子城の構築に取り掛かっていたが、小田原攻めなど幾つかの戦いに出陣したため.工事はしばしば中断した。関ヶ原の合戦で西軍に付いたことから、周防の岩国に減封されて、米子築城は未完となってしまった。関ヶ原の戦いがなかったなら、松江の誕生は幻になっていたであろう。
掘尾吉晴父子は、出雲国内の平野部を見て回り、前述の床几山の眺望から、この地に新しい城と街を構築することを決断した。その当時は、大橋川を挟んで、白潟郷、末次郷の二つの寒村が向き合い、橋で結ばれていたようで、それぞれの村には、市場と港が開かれていたようである。二つの村の周辺は湿地帯で、楽山の南から津田地区付近にかけては、湖のような水面が広がっていたという。
掘尾父子は宍道湖岸に城地を求めて、現地視察を繰り返し、北山連峰から末次郷に半島のように突き出した、赤山、宇賀山、亀田山と続く三連丘の南端、亀田山に城を築き、その周辺に城下町を構築する構想を固めた。慶長3年(1603年)徳川幕府の認可を得て、新しい城と城下町の建設に掛ろうとした翌年に忠氏が病気で急死した。まだ6歳であった忠氏の嫡男を,祖父の吉晴が補佐するという条件で、掘尾家の存続が認められ、城造りの名手ともいわれた吉晴主導のもと、松江城と城下町の建設が進められることになった。
亀田山は全面が宍道湖、左右が湿地帯で外敵を防ぐには絶好の地形であるが、搦手は北山の麓から尾根伝いに攻め込まれる地形であった。そこで、吉晴は宇賀山を切り崩し、内堀を掘るとともに、堀沿いに武家屋敷を置くことにした。これが現在の内堀と塩見縄手である。宇賀山を切り崩し、堀を掘削した大量の土砂で、殿町、母衣町から田町にかけて、湿地帯を埋めて武家屋敷町を構築した。末次と白潟は町人の町とし、両者を大橋で結ぶことによって、今の松江市街の骨格が形作られた。
築城にあたっては、石垣を築くため、十数万個に及ぶ大量の石材が必要になるが、それを大橋川下流の大海崎、矢田山、宍道湖岸の洗合山と嫁ヶ島などから舟で運んだという。嫁ヶ島は1,200万年前ころ、溶岩が噴出して出来たと云われており、玄武岩の岩礁であったと思われるが、現在は、長さ110m、幅30mほどの矩形状で水面すれすれの平坦な小さな島である。これが岩礁だったとしても、切り出せる石材の量は僅かなものである。
江戸時代初期までは、対岸の円成寺山と繋がった玄武岩の岬であったらしく、松江城の構築に石材を掘削したため、岬が無くなったとの言い伝えがある。嫁ヶ島は掘尾氏が弁財天を祀ったところから、弁天島とも呼ばれており、円成寺山の麓、袖師ケ浦から一直線上に島まで続く浅瀬があり、子供のころは弁天道と呼んでいた。嫁ヶ島は現在、湖岸の国道9号線沿いにある夕日スポットから220mの沖にあるが、浜乃木から天神川の河口までの埋立地ができる前は、山陰線のすぐ横が湖岸であったので、弁天道の長さは400m近くはあったと思う。
円成寺山-嫁ヶ島間
小学校4年生のころの夏、上級生に連れられて、はじめて徒歩で弁天道を通って嫁ヶ島に渡った。弁天道の表面は比較的滑らかな岩盤で歩きやすく、最も深いところでも、小学4,5年生のお腹の位置くらいであったと記憶している。それ以降中学1,2年のころまで、夏には毎日のように宍道湖で泳いでいたが、ひと夏に数回、弁天道をたどって、嫁ヶ島に出かけたものである。例年、春先には宍道湖の水位が下がり、波の穏やかな日に、半ズボンをたくし上げて歩いて渡ったことも何度かあった。岩盤の弁天道が、その左右の砂地の湖底となぜ異なっているのかという子供心に抱いた疑問は、松江城の石垣を切り出した跡ということで、それなりに解消できたと思う。
松江城と城下町の建設工事は、慶長十二年(1607年)に着手され、5年の歳月をかけて城下町松江が誕生した。
次回は西村二郎さんにお願いします。