芥川龍之介と松江

4期 山本 喜朗

 芥川龍之介は、一高時代の友人井川恭に招かれて、大正四年(1915年)松江を訪れ約半月の間滞在した。
 井川恭(結婚後恒藤恭と改姓)は、明治二十一年(1888年)松江市内中原町で生まれ、島根県立第一尋常中学校(松江北高の前身)を卒業後上京して第一高等学校英文科に進学、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄等と同級となった。一高の卒業成績では井川が一番、芥川が二番で絶えず首席を争ったといわれる。


一高時代の芥川(左)と井川

 一高卒業後、芥川は東京帝大文学部へ、井川は京都帝大法学部へ進学するが、二人の深い交友は、芥川が昭和二年(1927年)自死するまで続いた。
 恒藤恭は、のちに京都帝大法学部教授となり、昭和八年(1933年)の京大滝川事件で、佐々木惣一、末川博等とともに学問の自由のために闘い京大教授を辞任した。戦後、大阪市立大学学長を務め憲法擁護と国際平和の論陣を張り、積極的な活動をした法学者(文化功労者)として知られる。昭和四十二年(1967年)七十八歳で逝去した。
 芥川龍之介の松江との関わりを、まず、恒藤恭が残した随筆集『翡翠記』に拠って紹介する。

 大正四年の夏休みに、当時京大二回生であった私は、一高時代の同級生であった芥川龍之介君を松江に招いた。その頃、母や妹や弟たちは、うべや橋の近くの家から他の場所に移って住んでいたが、その家が手狭であったので、芥川を迎えるために、お花畑にささやかな空家をめっけて、しばらくそこを借りた。(後に、芥川から聞いた話では、その家は志賀直哉氏が借りて住んでおられたということであった。)

 八月三日に東京を出発した芥川は、五日の夕暮れに松江に到着し、二十一日まで滞在した。その間母がお花畑の家に来て、私たちと起居を共にし炊事をしてくれた。それは亀田橋のすこし手前にある城のお濠に臨んだささやかな平屋造りの家で、せまい庭のすぐ東側にはお濠の水がひたひたとたたえていた。

 芥川龍之介が恒藤恭に感謝を込めて贈った『松江印象記』(芥川龍之介全集所収)はつぎの美しい文章(原文のまま)ではじまる。

 松江に来て、先ず自分の心を惹かれたものは、此市を縦横に貫いてゐる川の水と、其川の上に架けられた多くの木造の橋とであった。愛すべき木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得た事をうれしく思ふ。

 芥川は、松江滞在中、恒藤とともに古浦の海岸で泳ぎ、出雲大社へ参拝した。大社ではお守りを買ったり、稲佐の浜を訪ねた。帰路、三瓶山を訪れ,石見の波根海岸で一泊したが「うつくしい。あそこいらの丘の景色はセザンヌの描いたものを見るようだね。」と喜んだ。また『松江印象記』には、さらに、次のような印象が綴られる。

 自分は独り天守閣に止まらず松江の市内に散在する多くの神社や梵刹を愛する。殊に月照寺に於ける松平家の廟所と天倫寺の禅院とは最も自分の興味を惹いたものであった。  松江はほとんど、海を除いて「あらゆる水」を持ってゐる。椿が濃い紅の実をつづる下に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のやうに青い川の水になって、滑かな硝子板のやうな光沢のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に変るまで。水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら、随所に空と家とその間に飛び交ふ燕の影とをうつして、絶えず懶い呟きを此処に住む人間の耳に伝へつつあるのである。

 また、芥川は、松江の将来の美観について、強い期待の言葉を残した。

 この水を利用して、いわゆる水辺建築を企画するとしたら、恐らくアアサア・シマンズ(註 アーサー・シモンズ 英国の詩人。1865-1945)の歌ったやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られるであらう。水と建築とは、この町に住む人々の常に顧慮すべき密接な関係に立ってゐるのである。決して調和を一松崎水亭にのみ委ねるべきものではない。

 いま宍道湖畔には、雑多な建築が立ち並び、芥川と恒藤のふたりがこよなく愛でたお盆の花市の灯や送り火は消えた。しかし、白潟や末次の湖畔公園が整備され、堀川をめぐる舟遊びも盛況である。私たちの愛してやまない水都松江が、芥川龍之介が言い残した「水に浮かぶ睡蓮」のように、いつまでも、いつまでも美しくあってほしい。 (2018/9/1)

 次は、尾野幹也さんにお願いします。

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